3600-2 (2001年に書いたもの)
「ファイナルファンタジー」という映画が、今年公開された。ご存知のように、RPGのビッグタイトルの一つからこのタイトルは由来している。公開前からその映像の質に話題が集中していた。
すでにいろいろなオールCGの映画は存在していたけれど、そのどれもが主人公は人間ではなかった。人間の顔の表情をCGで再現するのはとてもむずかしいからだ。
だが、この「ファイナルファンタジー」では、その難しい人間の表情に挑戦している。制作者曰く、主演女優賞を狙っている、らしい。
これはこれで、技術の進歩であり、今までは様々な理由で不可能であった映像が、作られていくことになるだろう。
しかし、これも一つの方法でしかないことを忘れたくはない。アニメーションが、現実で起こり得ない、物理法則を無視した表現をしたとしても、その一点を取り上げて酷評する者は、映画を見たとは言えないだろう。極論してしまえば、映画と現実とは違うのだから、現実でのルールが映画内で遵守されなくてもまったくかまわない。地球が自転を止めていようと、人間が空を歩いていようと、そこに現れるモノが今まで見たことがない何かでもかまわないのだ。それが、その作品内世界に存在し得るものであれば、それを見た人々にどれほどの違和感を与えようと。暴言を爆発させれば、人間を主人公に、身近な風景を舞台に撮影することなんて、なんて容易いことなんだ。観客は人間なのだろうから、それも今まで人間の間で何年か生き延びてきた者なのだから、人間の表情が何を表出したいのか、蝉の表情よりもうまく読みとってくれることだろうよ。あまりにも安易に人間を登場人物に使っていないか?表情を持たないように見える、缶や瓶を主役にできないものか?
そもそも映画は、動きを記録したいという欲望から生まれたものではないか。目の前に動いているそれらの動きを、別の場所で再現しようという試みは成功し、通常動いていないモノまで動かせるようになった。動いていないモノの動きも、動くモノの動きをトレースしているだけなのかな。それがリアリテーってもんかい。もっと斬新な動きはないものか。そういえば「千と千尋の神隠し」の竜の飛び方には、びっくりした。あののたくりかたに、感銘を受けた。今まで私の中には見た記憶のない動きだったのだ。
リアルとはいったい、如何ほどのものか。見たまま、聞いたままなどと、何も疑うことなく言えるほどには、もの知らずではなくなった。光の速度さえ変化し続ける。そのままであるものなど、何が残りうるのか。先ず自らの意志を疑え。その様に世界を見る者は、己だけだ。他者がどのように見ているのかなど、いくらあなたと同じと言われても、信じる以外途はない。今日見えた世界が明日もまた同じ様に見える保証はどこにもないのだよ。
こうしたここまで私が書いてきたことと、あなたがここまで読んできたことは、一体同じなのだろうか。
それでも、こういった全てのモノを包み込んでリアルは屹立する。リアルは個々に分散され、内包される。それは再び作り上げられなければならない。分散された全てのリアルが、噴出され、また個々の内部へと還っていく。この絶え間ないサイクルがこの世を形作る力であればこそ、人々は皆、自らのリアルの表現方法を持つべきなのだ。
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