2010年
日本
カラー
35ミリ
109分
ヨーロピアンヴィスタ
DTSステレオ
脚本・監督:日向朝子
原作:八木沢里志
製作:小林英太朗/久松猛朗
企画・プロデュース:越川道夫
音楽:野崎美波
撮影:猪本雅三
照明:北村憲祐
美術:松本知恵
音響:菊池信之
衣装:宮元まさ江
メイク:鈴木彩
助監督:小林憲史
編集:菊井貴繁
アシスタントプロデューサー:舘内亨太
監督補:松尾崇
協力:千代田区/東京古書組合/神田古書店連盟
制作プロダクション:スローラナー
製作:テンカラット/衛星劇場
配給:ファントム・フィルム
出演:菊池亜希子/松尾敏伸/奥村知史/吉沢悠/きたろう/岩松了/田中麗奈/内藤剛志
とある事から叔父が経営する古書店の二階に住むことになった貴子。神保町の暮らしの中で、少しずつ自身が変わっていく。
貴子(菊池亜希子)が、どう変わっていくのか、これが、この映画のメインストーリーだ。
未だに「自分探し」は流行っているのだろうか。
いろいろあっていいんだ、という気付きが出てくるけれど、変わる前の生活はあまり描かれていないので、対比されるわけではない。
「わたしって何やってるんだろ」って、タカオ(内藤剛志)に言うのが、唐突に感じてしまった。
その前に大声で何か(聞き取れなかった)叫んでいたようなので、演出としては、それが前振りになっているということなのか。叫ぶことに違和感があったから、唐突に感じたのだが。
ここでは、「自分探し」について、経験者サトルと初心者貴子という構成か。経験者は、初心者に自らの体験を語る。彼は、見つけた、と語ったが、もがいた末に、明らかしめた、ということなのだろう。必ず見つかるという思い込みを与えないような配慮を感じた。
サトル(内藤剛志)が、マスター(きたろう)に、「昔を思い出した」みたいなことを言うシーンが効いてないように思われる。二つある回想シーンも、サトルが泣いているシーンは不要ではないか。
マスターへの言葉が、竹内(松尾敏伸)へ会いに行かせる動機の一つなのか。
ゆったりしたこの映画の中で、竹内家急襲は大事件だ。現実にこれをやる人は多くないと思う。多くないからといって、このシーンがおかしいとは思わない。やる人が多くないということで、やりたいと思う人が多くない、ということではないのだろうから。
竹内家玄関ドア前シーンに関しては、気にしているのは貴子サイドだけだという事を明確にするため、偶然の再会シーンの演出をその方向に沿って強調(例えば、誰だか思い出した竹内は、貴子に軽く挨拶する、とか)するのは、やり過ぎだろうか。
なぜ貴子が街を出て行くところまで描かれないのだろうか。「協力」関係で、来るのはいいが、出て行くのはダメとかがあったとか?
この物語構成では、出て行くシーンは確かにそぐわない。
出て行かないで、ここで暮らすというのもありかと思うが、そこまでは変わらないということなのか。
甘えてしまいそうなのは、信念がないからだ。(「バーテンダー Glass142 バーの宝物-絆-」を参照)
森崎書店、ネット販売もあるとはいえ、大丈夫なのか?もう少し古書店がここにあるよ!ってことがわかる外装にされるとよろしいのでは。